睡眠覚醒をモデル系として、個体レベルでのシステムズ薬理学を目指します.
本研究室は、哺乳類の睡眠・覚醒リズムをモデル系として、生体の一日の動的恒常性の解明に取り組んでいます。特に、細胞と個体の階層間のつながりをとらえ複数の要素と系全体の振る舞いとの関係性を調べるためにシステム生物学的アプローチを採用し、個体レベルのシステム生物学を牽引することを目指しています。本研究室では、遺伝子ノックアウトマウス、ノックインマウスを高速・並列に作製する技術、個体レベルで細胞間ネットワークを効率的に同定する組織透明化技術の構築に成功しており、これらの技術を用いて、睡眠・覚醒の時間分布における平均・分散・総量が環境・履歴に応じて動的に決定される仕組みの解明に取り組んでいます。
これまでのゲノム科学・分子細胞生物学の進歩により、「分子」と「細胞」(あるいは細胞集団としての組織)の階層における体系的な理解が急速に進んでいます。一方で、特に医学的により有用な哺乳類において、個体レベルの高次の生命現象に対し、分子・細胞の階層との繋がりを詳細にとらえ、複数の要素と系全体の振る舞いとの関係を調べるシステム生物学的アプローチを適用することは、いまだに多くの技術的困難さを伴います。本研究室では、創薬・医科学分野で強く望まれている個体と細胞の階層に焦点を絞り、具体的な実験系として哺乳類の睡眠・覚醒リズムをモデル系として選択し生体の一日における動的恒常性の解明に取り組んでいます。個体レベルでのシステム生物学的アプローチを展開するために必要な先進的技術基盤を確立すると共に、それらを用いて睡眠・覚醒の一日における時間分布の問題の中でも、とりわけ平均(睡眠・覚醒の位相)・分散(睡眠・覚醒のON/OFF)・総量(睡眠・覚醒の質×量)が外的な環境や内的な履歴に合わせてどのように動的に決定されているのかを解明します。
近年、CRISPR/Cas法の開発によりゲノムを効率よく編集できるようになり、受精卵に同手法を用いることで特定の遺伝子をノックアウトした変異マウスが従来の方法よりも高効率に作製できるようになりました。しかしながら、遺伝子のノックアウト率は一般的には約50%程度であり、遺伝子ノックアウト動物を大量に作製するには数回の交配を必要とし、少なくとも1年以上の時間が必要となります。また、複数の遺伝子を同時にノックアウトしようとすると、効率がさらに落ちるという課題もあります。
CRISPR/Cas法では一般的には1つの遺伝子(対象遺伝子)に対して1ヶ所のゲノム上のターゲットサイトをガイドRNAで切断します。本研究室では、ガイドRNAのデザインを改良し、3ヶ所を同時に切断する「トリプルCRISPR法」を開発しました(Sunagawa et al., Cell Reports 2016)。この手法をマウスに適用したところ、1世代目で極めて高い確率(ほぼ100%)で遺伝子ノックアウトマウスを作製することに成功しました。開発した手法では、交配を重ねる必要がないため、わずか3ヶ月程度で遺伝子改変マウスを作製できます。トリプルCRISPRの際に用いるgRNA配列候補については、マウスの全遺伝子についてデータベース化し公開しています(CRISPR database)。
睡眠・覚醒状態の表現型と責任細胞を効率的に結びつけるために、睡眠・覚醒の表現型解析と責任細胞の同定の高速化・並列化が重要です。本研究室では、これまでに高感度な呼吸測定法を新たに開発し、従来の高い侵襲性・技術・コストを要求する表現型解析とは異なる非侵襲睡眠解析法の構築に成功しました(Sunagawa et al., Cell Reports 2016)。また、当研究室では既に時系列データの自動解析による睡眠・覚醒状態の自動判定システムを構築しています(Sunagawa et al., Genes to Cells 2013)。これらにより、マウスを飼育容器に収納するだけで睡眠覚醒状態の自動解析ができるシステムを確立しており、高速変異マウス作製技術と組み合わせて、種々の変異マウスの睡眠・覚醒の表現型解析を行っています。また、本研究室では、脳や全身における遺伝子発現の様子を1細胞解像度で3次元イメージとして取得し、情報科学的な方法を応用した定量的な比較解析が可能な一連のパイプライン“CUBIC”法を開発しました(Susaki et al., Cell 2014; Tainaka et al., Cell 2014; Susaki et al., Nature Protocol 2015)。CUBICにより全脳レベルでの神経活動の履歴を可視化することで睡眠・覚醒の時間分布決定に関与する細胞ネットワークの同定に取り組んでいます。
一日の睡眠時間は恒常的に制御されており、断眠によって失われた睡眠時間は、翌日の睡眠を深くあるいは長くすることで補償されます。その一方で、必要な睡眠量は生物種間で大きく異なっており、必要睡眠量を規定する要因は明らかではありません。我々は、上記で開発した一連の技術を用いて、中枢神経細胞におけるカルシウム依存的な細胞膜電位の過分極に関わる一連の遺伝子群が、個体の睡眠時間を遺伝学的に規定する一因となっていることを明らかにしました(Sunagawa et al., Cell Reports 2016; Tatsuki et al., Neuron 2016)。
我々はまず、睡眠時に於いて観察される特徴的な脳波(徐波)の基盤となっている、大脳皮質神経細胞の間欠的な発火パターンに着目しました。各神経イオンチャネルの働きによる神経膜電位の変動をコンピュータシミュレーションによって解析し、Ca2+の細胞内への流入と、それによって活性化されるCa2+依存的なK+チャネルが間欠的な発火パターン形成に重要であることを示した。
次に、この予測を実証するために、Ca2+依存的な膜電位過分極経路に関わると考えられる遺伝子を網羅的にリストアップし、トリプルCRISPR法によるノックアウトマウスの作製、およびSSSを用いた睡眠表現型の解析を行った。その結果、その結果、Cacna1g、Cacna1h(電位依存性カルシウムチャネル)、Kcnn2、Kcnn3(カルシウム依存性カリウムチャネル)、Nr3a(NMDA型グルタミン酸受容体)ノックアウトマウスが顕著な睡眠時間の減少を示す一方で、Atp2b3(カルシウムポンプ)ノックアウトマウスは顕著な睡眠時間の増加を示し、これらの遺伝子が睡眠時間制御因子であることが明らかとなりました。Atp2b3とその他の遺伝子の表現型が逆であることから、細胞内にCa2+を取り込んだり、取り込まれたCa2+によって駆動されたりする系路が睡眠量の増加に寄与し、逆に細胞外へCa2+を汲み出す経路が睡眠量の減少に寄与する、と解釈しています。
また、いくつかのサブタイプがノックアウトによって致死的となるNMDA型グルタミン酸受容体(Nr1およびNr2b)については、NMDA受容体阻害薬をマウスに投与する薬理的手法により、睡眠への影響を評価したところ、予想通りNMDA受容体阻害薬投与により、睡眠時間の短縮が生じました。興味深いことに、この条件下でCUBIC法を用いた全脳レベルでの神経興奮性マーカー発現解析を行い、NMDA受容体の阻害によって、大脳皮質の神経細胞(錐体細胞)の興奮性が上昇 することを観察しました。この結果は、Ca2+の細胞内流入が過分極を介して皮質神経の興奮性を抑制するという我々の仮説を支持するものと考えられます。
Ca2+の細胞内流入が睡眠時間を制御するとすれば、覚醒から睡眠への切り替わりを担う分子は何でしょうか。我々はCa2+依存的に多くの神経チャネルの翻訳後制御を担うCaMKII(カルシウム・カルモジュリン依存性プロテインキナーゼII)に着目し、Camk2a, Camk2bノックアウトマウスが睡眠表現型の異常を示すことを明らかにしました。これらのリン酸化酵素が神経チャネルの性質を制御することで数分から数時間の時間スケールで生じる睡眠と覚醒の状態遷移を引き起こすのかもしれません。
多くの臨床的な睡眠あるいは精神疾患モデルが齧歯類を用いて作出されていることを鑑みれば、我々の作製した一連の睡眠変異マウスが、睡眠障害およびそれに付随する精神疾患、神経変性疾患の理解と治療戦略の探索へ貢献することを期待しています。